猫とMacの日々
親父の介護を頼んでいるケアマネージャーからでした。
「お母様に連絡しようと電話したんだけれども繋がらないので心配になってお家に来たら近所の方が『お父様がお亡くなりになった』と言ってるんですよ。」
お袋は携帯を持たないので直接の連絡が出来ず仕方なくお寺に電話を入れると、
「昨日の早朝旅立たれましてね、今火葬場で、午後3時から葬儀して3時半の納骨ですわ。」と住職。
葬儀の前に火葬するというのが気になって聞いてみると実家の方はみんなそうらしいのです。
時計を見るともう午後1時、電車の連絡を考えるともう葬儀には間に合いません。
そんなことを考えていると住職がポツリ言いました。
「お母さんがな、『誰にも言うな』言うんでな、誰にも連絡してないんやわ。ごめんな。」
親父の借金で先祖代々の家屋敷が人手に渡って小さなアパートに引っ越しても私に教えないお袋のことです。
こうなることは薄々想像がついていましたが……。

私が物心ついた時から親父は生活費を家に入れず遊び放題。お袋が結婚衣装を仕立てたりお茶やお花の指導をしたりして稼いで育ててくれました。
たまに親父が帰ってきた時はいつも泥酔していてコップやお茶碗から柱時計に至るまで玄関のガラス戸に投げつけ手に負えないほど暴れまくるんです。
そのトラウマで私はお酒が全くダメです。酔っぱらいを見るだけで憎悪さえ覚えます。
私が幼稚園に上がるか上がらないかくらいの時、上機嫌で親父が帰ってきました。新車を買うんだとかでセールスマンを連れて。
「早速交渉やな」という親父を無視してセールスマンは布団の中で寝ている私の顔を覗き込みます。
「息子さん、ものすごい熱ですよ!」
「いいんやいいんや、値引き交渉が先や」
「何を言ってるんですか!こりゃ肺炎ですよ!私が病院へ連れていきます!」
セールスマンの車で病院に行き事なきを得ましたがもう少しで危なかったと後になって聞きました。
万事が万事こんなですから後になってお袋には何度も離婚を勧めましたが
「あの人は私がいないと犯罪者になってしまうでしょ。」といつもやんわり断るのです。
私は一家団欒という言葉と全く無縁に18歳まで過ごしそして実家を出ました。
その後も親父は心入れ替えることなく、愛人の取っ替え引っ替えを繰り返しいつの間にか音信不通となりました。

「捜索願が出ているあなたのお父さん、田んぼに軽で突っ込んでね、大怪我してるんよ、こっち来てくれるかね?」
急いで病院に駆けつけると肋骨6本骨折し身体全体に包帯をぐるぐるまかれてグーグー大いびきを掻いている親父がいました。何十年ぶりの再会でした。
田植えで水を張った状態の水田だったため衝撃が緩和され一命はかろうじて取り留めたとか。
水田の地主さんへのお詫びとか自動車保険の手続きを済ませやれやれと思った矢先に主治医の先生から早口で嫌な話を聞くことになります。
「お父さんね、肺癌、しかも末期、手術不可能、余命半年。どうされますか?」
「医学のため、実験材料にしていただいて結構です。」
「あはは。面白いこと言うね。あっはっはっは。」
結局親父は相当悪運が強いらしく私の意に反して先端医療を受けることができ痛みもなく1年も延命しました。
何にも世間様のお役に立たなかった親父ですがせめて彼の治療データが癌で苦しむ人々のお役に立てばこんな嬉しいことはありません。

数人だけの参列者の一番後ろにぽつんと立ち手を合わせました。
目を閉じ読経を聞きながら、普通なら哀れみとか悲しみが湧いてくるんでしょうがそんなことはなくもう心配しなくてもいいという安堵感が身体中に染みていきます。
目を開けると前方にかなり細くなったお袋が見えましたがその後ろ姿は何かをやり遂げてホッとしているようにも見えました。
その後参列の方々に頭を下げていると内情をよく知る人から
「今まで苦労されたお母さんを楽させてやってよ」と語られ重く心に響き渡ったのでした。
平成23年10月24日 享年78歳と10ヶ月、自由奔放傍若無人に生きた親父永眠。
